2022.09.06

房総半島の先端(はしっこ)にドラマあり
個性豊かな千葉の岬をめぐる

カルチャー

千葉県には、東京湾や太平洋に突き出た大小の岬が34ヶ所ほど※あります。岬の魅力は、なんといっても地球の広さを実感できる絶景や周辺地域に漂うノスタルジックな雰囲気。そして、陸地の終わりであり始まりである岬には、しばしば人生における邂逅の物語があります。

今回は、そんな岬に暮らす人々や土地にまつわる歴史をたどりながら、3つの個性豊かな岬をめぐります。(※参考:国土地理院地図及びGoogleマップ)


心を癒す風景と音楽とコーヒーと。「明鐘岬」

金谷港から国道127号を南下したところにある「明鐘岬」(鋸南町)。岬の先端は背後にそびえる鋸山が東京湾へと落ち込むポイントであり、ゴツゴツとした岩礁が広がる磯浜一帯は、メジナ、クロダイ、スズキ、メバル、カワハギ、アジなどが釣れる釣り場として人気です。

目の前には浦賀水道が広がり、大型船が行き交う。

この「明鐘岬」は、森沢明夫の小説『虹の岬の喫茶店』(2011年)のモデルであり、吉永小百合プロデュースによって映画化された『ふしぎな岬の物語』(2014年)の舞台となった、音楽と珈琲の店「岬」があることで一躍有名になりました。

『虹の岬の喫茶店』あらすじ
小さな岬の先端にある喫茶店。そこには美味しいコーヒーと、人生に寄り添う音楽を選曲してくれる女主人がいる。喫茶店と出会い、次第に心が癒されていくお客たち。やがて、彼らの生き方に変化があらわれはじめる。美しい岬の風景と、四季の移ろいを通して綴られる人生再生の物語。

もともと岬カフェは、オーナーである玉木節子さんが、この地でドライブインを営んでいた父親に誘われるかたちで、隣ではじめた喫茶店でしたが、ドライブインともども2011年に火事で焼失。

当時、そのロケーションの素晴らしさと店の雰囲気の良さに惹かれて書き始めた『虹の岬の喫茶店』をほぼ完成させていたという森沢さんは、この火事にショックをうけ、物語のなかに在りし日の喫茶店の姿をとどめておこうと、喫茶店の様子をより忠実に再現した内容へと書き直しています。

その後、常連のお客さんたちの協力もあり店は再建され現在あるのは2代目。映画に登場したカフェは初代の喫茶店をモデルにセットを組み、明鐘岬で撮影されたものです。

吉永小百合さんが演じたカフェの女主人「柏木悦子」のモデルである玉木節子さん。

吉永小百合さんとの写真の数々。小説を読み感動した吉永さんは映画化にむけ自ら企画を担当、初めて製作から携わった作品となった。

カフェでは、小説に登場するハート型のコーヒーカップをモチーフにつくられた、玉木さんの姪御さん作のカップでコーヒーをいただける。

レコードプレイヤーからながれる、玉木さんセレクトのジャズやシャンソンに耳をかたむけながら、浦賀水道を行き来する船舶を眺めていると都会の喧騒が嘘のよう。水平線の彼方へと思いをはせながら、美しい夕日とともに味わうコーヒーも格別です。


断崖を下り運命を切り開いた姫の物語。「八幡岬」

太平洋に突き出したリアス式海岸による険しい地形が魅力の「八幡岬」(勝浦市※)。はるか遠くまで続く海原と切り立った断崖は「これぞ岬!」と称えたくなるような迫力であり、かつては上総武田氏や里見氏(安房正木氏)が治めた勝浦城が築かれていた天然の要塞でした。(※いすみ市にも同名の岬あり)

勝浦城は徳川家康の側室“お万の方”縁の城。正木頼忠の娘であったお万は、徳川方の軍勢に攻められ落城する際、八幡岬の東側約40mの断崖に白い布を垂らして海に下り、小船で館山方面へ逃れた※という伝説があり、その伝説にちなみ崖は「お万の布さらし」と呼ばれています。(※所説あり)

伊豆へと逃れ豪族 蔭山氏広の養女となったお万でしたが、なんと、家康に見初められると17歳で側室となり、その後、水戸徳川家の家祖(徳川頼房)と紀州徳川家の家祖(徳川頼宣)を産むことになります。岬に打ち付ける荒波をみていると、断崖絶壁を下り、海をわったって人生を切り開いたお万の波乱万丈な人生と力強い生き様を思わずにいられません。

太平洋を臨む八幡岬公園に立つ「お万の方」の像。

岬内の公園からは左手に勝浦灯台が、右手には地震で没した旧・遠見岬神社の海のなかにたつ「鳥居」が望めます。現・遠見岬神社は、勝浦市内の小高い丘の上へと遷座されており、最近では、2月下旬~3月に開催される「かつうらビッグひな祭り」の際に、60段の石段に1,200体のひな人形が飾られる「巨大なひな壇」で全国的に知られるようになりました。

「ひらめヶ丘」(海抜70m)にたつ「勝浦灯台」。

旧・遠見岬神社の鳥居がたつ「富貴島」。地元では平島と呼ばれている。


風化する戦争遺構。都心に最も近い岬「富津岬」

東京湾口に位置する「富津岬」(富津市)は、複数の潮の流れにより砂礫(さし)が曲がることなく堆積した尖角岬の代表的な例です。

江戸時代後期から昭和20年まで首都防衛の最前線であり、岬内には掘りで囲まれた城郭のような「富津元洲堡塁砲台の跡」を、沖には明治から大正時代にかけてつくられた人工島「第一海堡」と「第二海堡」を見ることができます。

「明治百年記念展望塔」から眺めた富津岬。先端から約5㎞の長さがある。

浦賀水道に浮かぶ「第一海堡」「第二海堡」。対岸は三浦半島。

岬内には「富津元洲堡塁砲台の跡」がある「中の島」へと渡る橋。大きな堀が印象的。

海堡は全部で3ヶ所ありましたが、横須賀市沖に造成された「第三海堡」は関東大震災で崩壊、海上交通の妨げになるとして撤去されています。いずれの海保堡も砲台も、空中戦が主力となった太平洋戦争では要塞の役目をほとんど果たせずに終わり、風化した遺構は戦争のはかなさや愚かさを今に伝えます。

現在は岬全体が県立公園として整備されており、先端部に建つ五葉松をかたどった「明治百年記念展望塔」をはじめ、キャンプ場やテニスコート、プール、そして富津名物の穴子を楽しめる店など、今では東京湾の絶景と海の幸を堪能できる“都心からもっとも近い岬”としてひろく親しまれています。

富津公園内に店を構える公園食堂「志のざき」の「煮穴子丼」。

ちなみに岬は、「崎(埼)」以外に「鼻」「角」「根」「首」と記され、その成り立ちは、沈水した尾根や半島、隆起した岩石が波に浸食された棚、砂や小石が堆積した砂嘴 (さし)など、さまざま。海岸沿いの変化に富んだ地形を観察するのも岬めぐりの醍醐味です。

土地に根付く歴史や人々の逸話とともに“陸の最果ての地”ならではの絶景や出会いを楽しんでみてはいかがでしょう。

記事をシェアする

ページトップへ戻る